ヒラス(ヒラマサ)の思い出 その1
 今年(2011年9月〜)は約10年ぶりのヒラスの当り年です。僕が
三ツ瀬に通いだして35年。
三ッ瀬の思い出を過去を振り返りつつお話いたしましょう。
 三ッ瀬に瀬渡しを始めたのが昭和35年(1960年)頃から。当時
はヒラスとゆう魚があまり知られていなかった。オキアミもまだ無かっ
た時代。
エタリイワシがヒラスやブリに追われて磯に打ち上げられ、それを拾
って石鯛竿(もちろんグラスロッド)で釣ってた時代があったそうです。
エタリイワシが打ち上がらないときは、なすすべもなく1日磯の上にい
たそうです。
 毎年、9月からヒラスの回遊が始まり、正月くらいまで釣れていま
した。昭和50年頃までは毎年大量(今年以上)に釣れていました。9〜
10月頃までは生きアジ、11月〜キビナやイワシの切り身で釣ってい
ました。
 昭和40年後半にオキアミが登場してヒラスのブームが起こります。
9月からアジ子で狙い、11月頃からオキアミ、ボイルで狙うのが定着
します。
 当時の(ヒラスで人も魚も沸いた時代)釣り人の数は凄まじく、照三丸
3隻、松漁丸、栄丸、5隻の運航で2番船が出るのが当たり前。土日は
3番船が出るのも珍しくありませんでした。ワンドから1番人気のコブに
25人乗っているのを見た事があります。
 夜明けと共にワンドから見ているとリュウジンから竿が曲がり始め、コ
ブに並んだ釣り人の竿がピアノの鍵盤を次々に弾くように竿が曲がって
いきます。
他の釣り人に見とれているといきなり海中に引きずりこまれそうになりま
す。次の瞬間、ファッっと竿が軽くなります。バラしです。昭和51年(当時
小学校5年生10歳)の初めてのヒラスとの遭遇です。
当時、カーボンロッドが出始めで高くて買えなくて(当然小学生だから)ス
ーパーグレ2号に10号道糸(道糸の種類も現在の様に種類が無く、東レ
の銀鱗)にシガーの7号ハリス(当時は1種類のみ)。8号ハリスでもバン
バン食ってジャンジャンバラしていました。
 で、忘れもしない昭和53年の12月24日のクリスマス!(中1の冬休み)
平のワレで初ヒラスに遭遇します。

ヒラスの思い出 その2
昭和53年(1978年)省ちゃんが僕の顔を覚えてくれた頃。
 12月23日。その日は北東の風が強く吹いていました。
僕とおやじと兄貴の3人で平のワレに乗ることができました。渡船の港に峰水
産とゆう水産加工会社があって、玄関前にいわしが10匹ほど落ちていました。
それをおやじが拾ってバケツに入れています。どうするのか尋ねると切り身の
つけ餌にするといいます。この切り身が僕の運命を変えました。
 瀬に渡り仕掛けを作ります。グラスロッドのヒラス竿(確か若潮)道糸10号に
ハリス7号。夜が明けいわしの切り身を付けて足元から第1投。10mほど流れ
てウキが一瞬で消えます。来た!満身の力を込めてこらえます。フリーにした
リールハンドルが勝手に逆転していきます。次の瞬間、ふうっーと軽くなります。
しまった!ばらした!悔しさがこみあげてきます。今年もヒラスを釣ることが出
来ないのか。気を取り直して第2投。またきたっ!
今度こそは絶対ばらさない!締め込みにこらえる!必死にリールを巻く!2回
目の足元での締め込みに必死にこらえる!さっきはここでばらした!今度こそ
とリールを必死に巻く!浮いた!兄貴が1発でタモですくってくれました。ついに
やった!3kの立派なヒラスです。
 その後、兄貴が1本あげて切り身では食わなくなりました。
日が高くなるにつれ当りが遠のき、おやじが3号ハリスにコショウウキでクロ釣り
仕掛けに変えた途端、当りがきます。レバーブレーキのリールが無かった時代、
うなり音をたてて逆転していくハンドルをパンパンッ!と手のひらで止め、浮かせ
ます。おやじが3本、3号ハリスで上げます。兄貴も1本追加します。
 僕はとゆうととても3号で上げる腕はありません。とゆうか、3号にすれば掛るこ
とはできるけど絶対上げれない。こわくて仕掛けを変えれない。7号ハリスのでか
い仕掛けをただ1日持っていました。
その日まわりを見渡すと、平に20人ほど並
んで釣りをしています。右となりでは石鯛釣りをしていた釣り人が石鯛を1枚上げて
いました。
 狭い釣り座にたくさんの釣り人が押し掛けると、当然トラブルも起きます。釣り場
でのイザコザは日常茶飯事、団体戦が船から上がった後、3回ありました。(僕は
参加してないよ)
それで来なくなった人も多いけど、それでも通う魅力がありました。
 釣り場争いが激しいので、釣り舟ごとに1番先に瀬付けする優先順位を設けて
現在に至ります。
 省ちゃんが言うにはもっと早く割り当てを決めていたらよかったな。割り当て
を早く決めていたら、トラブルも少なかったろうに。
たくさんの釣り人の大量の撒き餌でヒラスを寄せて釣っていた、古き良き?時代
でした。

ヒラスの思い出 その3
 夜明けと共にウキが見えるか見えないかの明るさでの第1投。
スプールを開け道糸を出していると加速をつけて糸が出ていく。
来た!ヒラスか!こらえきれずギアをフリーにするとものすご
い勢いで逆転してゆくレバーハンドル!あわててハンドルをつか
もうとすると右手に激痛を感じる。しまった!手をはじかれた!
やっとのことでハンドルをつかむと右手指先からしたたり落ちる
真っ赤な血。しまった切れた!と叫ぶと、まだきれとらんっ!
と叫ぶおやじの声。ちがう手が切れた!と叫ぶ。
5分だったろうか、10分だったろうか。リールを巻いてはこらえ、
まいてはこらえ、こらえていても巻き取る方向とは逆方向に勝手に
回るハンドル。足元まで寄せた。もう少しでヤツが、ヒラスが見える。
次の瞬間、ヤツは左に走る!
と同時に、ふっーと軽くなる。
しまった!ばらした!
悔しさと共に右手に走る激痛。
昭和56年、1981年。15歳(中3)の1月4日の出来事。30年経った
いまでも悔しい出来事。
7、8kのヒラスが当っていたシーズン。
野母崎の定置網に25kのヒラスが取れた年だったと思い起こす。
当時(30年も前)、ドラグでやり取りするとか知らなかった。
かけたらレバーをフリーにしてやり取りをしていた。
スプールを開けて糸を出す事を覚えたのは20年ほど前だったかな。
 昭和50年過ぎからヒラスの当り年が3〜4年周期でくりかえして
いた。
毎年、9〜10月から必ず始まり、正月過ぎまで賑わった。
 ヒラスに魅了され、ヒラスにとりつかれ毎日通いだしたのが昭和
から平成に変わるころ。
当時予備校生だったかな。
で、就職しようとした時、三ッ瀬に通うには、毎日通うにはどうしたら
いいか真剣に考え、選んだのが自営業。
金があった時代、本気で野母崎でアパートを探した時代。
金がなかった時代、釣れたヒラスを売って船賃と餌代を払っていた
時代。(3kで6千円以上で売れた)
 すべては三ッ瀬に通うため。
気づけばヌシ、三ッ瀬のヌシと呼ばれてた。
 釣果の写真とかは僕はあまり出しません。
釣りすぎてねたまれた事があるため。遊んでばかり(実際そうですが)
と思われ、商売に影響するため。
今年2011年冬は10年ぶりのヒラスの当り年!
みなさんも人生を間違えない程度に照三丸で三ッ瀬に通いましょう。
                           END 尾崎陸夫